トランプ旋風と、既成政治への不信感
プロンプターなしの率直な発言
今日、民放の番組でトランプ候補の「怪」進撃について特集をしていました。一般的に言われていることでもありますが、思想的には真逆と見える民主党のサンダース候補と同じく、既成政治に不信感を抱いた人々の支持が集まっているとの分析です。そうした不信感の一例として、オバマ大統領やヒラリー・クリントン候補によるプロンプターの使用が挙げられていました。
米国の大統領選挙においては選挙参謀の役割が非常に重要です。演説に関しても、緻密な選挙戦術に基づいたシナリオが準備されており、候補者はそれを真実らしく訴える俳優のような役割を演じます。最近ではプロンプターの技術が進歩して、マイク脇の透明な板に、語るべきことがすべて映し出されるようになっています。あとは効果的に「身振り」「手振り」「表情」などをつければ感動的な演説ができあがるというわけです。
ただ、最近ではそのようなからくりは周知のこととなっており、聴衆は、なかば白けています。そんな中、トランプやサンダースはプロンプターを使わず、まさにライブ感たっぷりの演説を行うのです。当然、失言、暴言なども飛び出すわけですが、作り物の正確さよりも、生の人間らしい間違いのほうが人々の心には響くのでしょう。
不満からくる改革の危険性
そんなところにも米国民の既成政治への不信感が見て取れるわけですが、急激な変革を期待してアウトローに投票すると言うのは、それはそれで危険な賭けです。日本でも、かつて東京と大阪に青島幸男、横山ノックといった政界アウトローのタレント知事が誕生したことがありました。90年代の日本新党ブームや、つい数年前の民主党政権の誕生も似たような文脈の中に位置付けられるでしょう。
その結果は…、必ずしも期待した通りにはなりません。むしろ、政策の一貫性が失われたり、素人的な思い付きで無用な混乱を巻き起こすことも多くありました。そう考えると、トランプ、サンダース両候補の躍進には、どうしても不安がつきまといます。日本にとってもTPPや安保条約の行く末にも関わることなので、ある程度は米国外交の基本線を崩さない人物であることが望ましいでしょう。
信じるものを失った社会
書かれた原稿どおりに語ると言えば、日本の政治家の答弁でもよく見られる光景ですが、それが必ずしも悪いとは言えません。きちんと練られた原稿に基づいて正確な発言を行うことは、特に責任ある立場の首相や閣僚にとっては重要なことです。しかし、一方で、血の通った情熱や信念を、本人の率直な言葉で聞いてみたいという人々の欲求も、故なきものではありません。要は信頼関係の問題なのでしょう。
同じことは、メディアや宗教にも言えるようです。ニューヨークタイムズやワシントンポストがどんなにトランプを批判しても、その勢いを止めることはできません。所詮はメディアも「体制側」と見なされているのです。その事情は日本も同じです。大手新聞社やテレビ局なども、その職員が大変な高給取りであることは周知の事実です。宗教も、本来は、社会を改革する上で有力なアクターのはずですが、特に若い人々の間でその信頼が低下しています。宗教離れが進む日本では相手にすらされていません。学校の教師や、大企業の経営者なども、かつてのような尊敬の対象ではなくなっています。
情報化が進み、あらゆる権威の欺瞞がはがれてしまったといえば聞こえはいいのですが、信頼し尊敬できる対象が失われた先には、混沌とし殺伐とした未来が待っています。日本でも「文春」が様々な著名人の仮面をはがし、人々がそれに喝采を送るということが繰り返されています。人の粗を探して喜ぶような風潮はどうか、と思いますが、影響力ある立場の人たちに真実性が求められるのは当然といえば当然です。政治家、言論人、宗教者、教師、経営者など、それぞれの地位が尊敬されてきたのは、各分野において積み上げられてきた先人の実績があったからでしょう。そうした歴史が虚飾でなかったと証明するためにも、謙虚な立場に立って、信頼をゼロから積み上げるくらいの覚悟が必要なのかもしれません。
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