慈悲(Mercy)と真理(Truth)
欧米では若者のキリスト教離れが進んでいます。米国の場合、2014年の時点で、50代以上の8割前後がキリスト教徒であるのに対して、10代、20代では、その割合が5割台にまで落ち込んでいます。代わりに、特定の宗教に関わりを持っていない人の割合は30%を越えました。
なぜ若者が宗教と距離を置くようになったのか、そこには様々な要因が考えられますが、一つには、現代社会が抱える問題に対して、宗教が有効な解決策を示すことができていないことが挙げられるでしょう。中絶、離婚・再婚、同性婚など、結婚や家庭に関する問題はその一つです。
これらの問題に関して、メソジスト、長老派教会など主流派のプロテスタントは、一般的な風潮に同調する妥協的な態度を取る傾向があります。対照的に、カトリックや福音派などは伝統的な教理を忠実に守る非妥協的な態度を取ります。前者は、社会的摩擦は少ないのですが、一方で、宗教的な熱意が薄まり、信徒数は著しく減少しています。一方で、後者、中でも福音派は、強力な使命感で団結を強めましたが、多くの敵を作ると共に、福音派の若い世代は、その「偏狭な」イメージを嫌い、教会と距離を置くようになっています。自らのことを「霊的、精神的ではあるが、宗教的ではない(not religious, but spiritual)」と自己紹介する福音派の若者たちもいるようです。本来、このフレーズは「特定の宗教に属していない」層が用いるものですが、福音派という熱心なキリスト教徒ですら「宗教的」という言葉を使うことに抵抗感が出てきているのです。若者にとって「宗教」という言葉自体が「偏狭な律法主義」を意味するものになりつつあるからです。
この問題は「慈悲(Mercy)」と「真理(Truth)」の対立として、宗教者たちを悩ませるものです。例えば、中絶や離婚といった宗教的な罪の当事者たちは、同時に望まない妊娠やDVの被害者でもあります。水が高い所から低い所に流れるように、犠牲者への同情は大衆的な支持を得やすいものです。従って、一部の宗教者たちは、中絶や同性婚の支持を、女性や性的少数者に対する「隣人愛」の実践であると主張します。
しかし、他の宗教者たちは、それを神に対する冒涜ではないかと恐れます。キリスト教ばかりでなく、多くの宗教の創始者たちは、愛や慈悲を説くと共に、厳しい倫理道徳の提唱者でもありました。イエス・キリストも、姦淫を犯した女を許す一方で「もう二度と罪を犯してはいけない」と忠告しました。そして、イエスの語る罪とは、婚外性行為や同性愛といった次元にとどまらず「女性を情欲の思いで見る」ことすらも含む、非常に厳格なものでした。釈迦が創始した仏教も同様です。性的感情や欲求は、その中に潜む自己中心性と執着の故に「煩悩」として克服すべき対象とされました。
実際に、離婚や再婚は、最も弱い存在である子供に深刻なダメージを与えます。虐待や貧困にさらされるリスクも増大し、学歴やその後の人生の成功に向けても数多くの困難を経験します。中絶に関しても、その実情を映像等で見たことがあるなら、逃げ回る胎児の姿に胸を締め付けられたはずです。同性愛についても、一部の深刻な差別ばかりが採り上げられていますが、一方で、男性同性愛者の性行動の奔放さや、エイズの感染率の高さなどを無視することはできません。弱者に対する共感や同情と共に、社会的な不正や悲劇を減らすための努力も重要です。
各宗教の創始者は、自らの中に「慈悲」と「真理」を共に体現していました。だからこそ多くの人々が、その実体に惹きつけられ、その語る言葉に耳を傾けたのでしょう。そして現実に抱える多くの課題に対する答えを与えられたと感じたはずです。果たして、現代のキリスト教を初めとする宗教は、多くの人々が現実に抱える痛みや苦しみを解決する力をもっているでしょうか?欧米諸国で影響力を低下させるキリスト教が再生するか否かは、創始者の伝統を「慈悲」か「真理」かに偏らず、正しく受けつげるかどうかにかかっているようです。
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