相模原の悲劇に思う
今日は、少し長めになります。
知的障害者の施設で、重度の重複障害者を中心に40人余りが殺傷された事件は、日本のみならず世界中に衝撃を与えました。もちろんイスラム過激派との関わりが深い欧米のテロとはその性格を異にしていますが、「自らが掲げる正義のために一度に大量の命を奪う」という独善性は共通しています。
大麻使用の影響による妄想もあったのでしょうか、犯人の青年は「ヒトラーの思想が降りて来た」と語っているようです。ヒトラーと言えばユダヤ人大虐殺で有名ですが、「優生学」の信奉者として、おびただしい数の障害者を「安楽死」させるという恐ろしいプログラムを実行した人物でもありました。
優生思想は「劣等な遺伝子の生殖を抑え、優秀な遺伝子の繁殖を促進することで社会改良をめざす」という考え方ですが、この源流にはダーウィンが立っています。ダーウィンの進化論以来、生命は「神によって、その特質や能力を付与された存在」ではなく、「突然変異」と「自然選択」により、環境に適応できなかった種は絶滅し、新しい環境にふさわしい存在だけが生き残り、進化の主役となったとされました。そこから派生したのが優生思想です。
近代以降発展した科学文明は、知らず知らず、優生思想的な発想を人々の中に植え付けているのかもしれません。個人のレベルでは、競争社会で生き残るために、無駄な時間や人間関係をそぎ落とし、より良いスキルや能力を身に着けて成功者になることが人生の重要なテーマとなっています。企業などの組織のレベルでも同様です。競争社会で生き残り、より良い業績をあげるためには、最適な人事配置を求め、優秀な人材は厚遇し、余剰人材は整理しなければなりません。
そうした発想や思考法が、私たちの社会を発展させ、豊かさを実現してきたことは事実です。しかし、このような考え方は、合理性の名のもとに「弱者切り捨て」という、無慈悲で、時には非人道的な行為につながるリスクをはらんでいます。犯人の青年は「重度障害者がいなくなることで国家的に経済的な負担が軽くなる」と述べたそうです。極端に合理性のみを追求する無慈悲なリストラと、どこか相通ずる思考法ではないでしょうか。「自分の行為を通して法律を変えるきっかけにしようとした」とも言っており、彼なりの正統性を構築したうえで、自らを改革者として位置づけていたようです。
しかし、そこには何か、人間として、決定的に重要なものが欠けています。それは一体何でしょうか?彼に欠落しているものを探ることは、私たちの社会に必要なものを探ることにもつながるでしょう。
進化論的思考法によって失われたもの
ダーウィンの進化論的な思考法が支配的になる一方で、そぎ落とされたものは何でしょうか?それは、与えられた生命や、起こった出来事の背後に、神の愛と意図、つまり「何かしらの意味」をくみ取ろうとする類の思考法です。それを宗教的発想といってもいいかもしれません。
洋の東西を問わず、宗教が共通して説いてきた重要なキーワードは「感謝」と「謙遜」でした。そこには、神や、宇宙の法の大きさの前に、人間は小さく有限であり、より大きな神や宇宙、自然のつながりの中で生かされている存在だという自覚があります。それを「悟り」あるいは宗教的な「知恵」と呼ぶこともできるでしょう。
そうした「知恵」は、病気や挫折など人生で直面する困難を、人間の思い通りに治癒したり、克服できるものだとは考えません。むしろ「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に代表されるごとく、与えられた試練を感謝して受け止め、そこに「意味」や「恩恵」を見出しながら、最大限、ベストを尽くし、他者への愛を実践することを奨励します。
こうした宗教的発想が大きな力を発揮する状況の一つが、まさに障害者と共に生きる場面ではないでしょうか。そう考える根拠となっているのは、筆者の個人的体験です。ここからはプライベートな話になりますが、実は、筆者の近親者に、今回の事件で犠牲になった方々と同じような境遇の知的障害者がいます。現在、彼女は施設には入居せず、自宅で家族と暮らしながら、作業所に通う日々を過ごしています。
障害者の方と共に生活するということは、きれいごとだけでは済みません。筆者自身、幼い頃ですが、彼女の行動に怒りを覚え「いっそのこといなくなればいいのに!」という言葉を投げつけたことがあります。その時に両親は「同じ家族なのにそんなことを言わないでほしい」と泣きながら訴えました。
そんな日々の中、思春期の筆者の胸に大きく響いた言葉がありました。それは、神主をつとめておられた親族の言葉です。その方は、宗教的な背景に加えて人格者でもあり、立派な髭をたくわえた長老格のおじいさんでした。その方が、柔和な笑顔で、知的障害を持ったその子の頭をなでながら「この子は家族にとっての宝だよ。神様のようなものだから大切にしないといけないよ」とおっしゃったのです。
その言葉は心に響き、一つの問いを筆者にもたらしました。表面的に見ると彼女の存在は家族にとって負担でしかないのに、それがなぜ「宝」であり「神様」なのだろうか、という問いです。その視点をもって、改めて彼女と家族、そして自分との関係を見つめなおすと、本当に多くのことを学び、私自身が人を見つめる際の視点も大きく転換することになりました。
宗教的に深い「知恵」から発せられた言葉は、単なる情報や知識とは違い、心の深いところに影響を与え、発想や生き方を根本から変える力を持っているのです。
「障害者」と「健常者」
私が、障害者として生きる彼女から学んだことを、いくつか挙げておきたいと思います。
障害を持った方々は、能力や可能性が限定されているからこそ、同じ一つのことをなすにも健常者以上に真剣に懸命に取り組みます。私たちが当たり前のように何気なく享受している生活が、どれほど恵まれたものなのかを思い知ると同時に、いい加減で傲慢な自分自身を悔い改めさせられもします。
また、知的に発達が遅れている方は、その分、率直に純粋に感情を表現します。嬉しい、悲しい、寂しいなど、余計な思惑を抜きにして感情を表現する姿に、逆に私たちの感情が揺さぶられます。父親を失ったとき、知的障害をもった彼女は、誰よりもその悲しさ、寂しさを表し、人目もはばからずに号泣しました。親族全体に、その感情が染み渡ったことは言うまでもありません。
また、彼女たちの存在が、親を初めとする周囲の人々の人生にどれだけの深みを与えてくれるか、また、愛情や思いやりの世界を教え、引き出してくれるか。そして、彼女を愛する人たち同士の間に、どれだけ深い信頼関係や絆を築いてくれるか。障害者と健常者が偏見などの壁を越えて、心からの関わりを持つ時、彼ら彼女らの存在は、まさに健常者に多くの学びと幸福をくれる「宝」であり「神様のような存在」となります。それは、きっと彼ら、彼女らにとっての私たちも同様なのでしょう。もっと言えば、両者の間には本質的な区別すらなく、支え合い、補い合い、尊重し合う人間としての本質的な在り方がそこにはあるのです。
現代社会に欠けているのは真の「宗教」性
思春期の私に、そうしたものの見つめ方を教えてくれたのは、神主のおじいさんでした。もし、その出会いがなければ、幼い頃、障害を持った家族に対して「いっそのこといなくなればいいのに」という言葉を投げつけたごとくに、私自身、今回の犯人とも通ずる冷たく傲慢な人間になっていたかもしれません。
かつて、同様のテーマで小文を書きました。そこにも書きましたが、進歩や豊かさをもたらしてくれる「科学」と、感謝や謙遜、欲望の抑制を教えてくれる「宗教」は車の両輪であると思います。自らが持つ正義感や激情を無条件に肯定する過激主義が「宗教」と誤解される昨今ですが、障害をもった子供を、おだやかで柔和な笑顔で「宝」「神様」と呼ぶ、それこそが真の「宗教」性であると、筆者としては考えています。そして、それこそが現代社会に欠けている最大のものではないでしょうか。
最後に、文中でも紹介した神学者ラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)の作とされる詩を紹介して終わりたいと思います。つたない訳で申し訳ありませんが、故郷でつつましく暮らす姉と母、また、事件に衝撃を受けた全国の障害者の方々と、困難の中に生きる人々すべてに送りたいと思います。
どうか、神様が置かれた場所で咲いてください。
諦めるよりもむしろ、あなたの人生を最大限に用いて、花のように咲くのです。
花を咲かせることは、幸福に生きること。
あなたの喜びをもって、人々に幸福をもたらしましょう。
あなたの笑顔は、人々の間に広がっていきます。
あなたが幸福であり、あなたの笑顔でその幸福を示す時、
人々はそれを知り、彼らもまた幸福になるでしょう。
神様はあなたを特別な場所に植えられました。
もし、あなたがそれを知り、人々とそれを分かち合う時、あなたの個性は輝くでしょう。
その「輝き」こそ、私たちが「咲く」と呼ぶものです。
神様が私を置かれた場所で、私が咲く時、
私の人生は、生命の庭に咲く美しい花となるのです。
神様が置かれた場所で咲きなさい。(ラインホルド・ニーバー)
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