文明間の対話と「新しい物語」の創造

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西洋的近代に対する疑念

21世紀2つめの十年紀(decade)を迎え、世界中で地殻変動ともいうべき劇的な変化が起こりつつある。悲観的に見ると、冷戦後の世界は『歴史の終わり』(フランシス・フクヤマ)の方向には進まず、むしろ『文明の衝突』(サミュエル・ハンチントン)時代に突入しているようでもある。実際に、欧米の論調にも同様の意見がちらほら見え始めた。

ハンチントン博士は1993年に書いた論文(1)の中で、イデオロギー対立の「鉄のカーテン」に替わる、文化の「ビロードのカーテン」について触れている。そこで引かれたラインは、既に、ウクライナの東西を分ける文化的断層について示していた。一方で、シリア内戦などは、必ずしも「キリスト教vsイスラム」という単純な構図ではないかもしれない。しかし、西洋列強によって引かれた不自然な国境線や、金融資本主義と癒着した世俗的権力に対するプロテスト(抗議)という意味では、やはり文明的葛藤と言えるだろう。アラブ諸国で頻発する紛争の底流にはそうした構図が明確にある。その代表が「イスラム国」であり、西洋文明がつくり出した近代に対するアンチテーゼの闘いだ。

そこで問題になってくるのは、近代世界を主導してきた西洋文明、「the West」に対する評価である。ウクライナ問題も、EU、更にはNATOの際限のない東方拡大を警戒したロシアの西側諸国への不信から起こっているという意見がある(2)。巷間、言われているような「大ロシアの復活」や「ソ連再興」を成し遂げるような力は現在のロシアにはない。むしろ西側諸国の方が、着々とロシアの外堀を埋め立て、遂にロシアにとって非常にセンシティブな位置づけにあるウクライナ、グルジアまで入り込もうとした。今回のロシアの行動はその西側の侵食に対する防衛反応だったとの指摘だ。これらの西側がとってきた無神経な行動は、クリントン政権のリベラリストたちの政策に源流を持ち、理念的には「自由の拡大」を謳いつつ、具体的には社会工学を駆使した、政財界や市民社会への工作活動を伴っていた。プーチンは、これらが自国に適用されることを恐れている。ウクライナの次はロシアだと思っているのだ。また、台頭する中国の問題も「the West」が主導する世界的秩序への挑戦として捉えることができる。

中東地域の混乱やウクライナ、中国問題に至るまで、その文明的葛藤の相手は、西側、特に欧米諸国という点で共通している。現代における『文明の衝突』は、いくつかの文明が並列で対立しているというよりも、冷戦後の一時期、世界の主流となるかに見えた西洋近代文明に対する、それぞれの文明からの「異議申し立て」という様相を呈しているのである。この小論では、これらの文明的な葛藤が意味するものは何か。また、この葛藤を越えて、私たちはどのような世界を目指していくべきなのか、などについて少し考えてみたいと思う。

なお、ここで「the West」ないしは西洋近代文明と表現するのは、自由や人権、法の支配といった近代的価値、民主主義という政治体制、更には自由市場を基盤とした資本主義経済を意味し、同時に、それらの拡大を主導的に担ってきた米国や西欧諸国自体をも表す言葉として用いている。

(1)Samuel P. Huntington.“The Clash of Civilizations?”. Foreign Affairs SUMMER/1993
(2)John J. Mearsheimer.“Why the Ukraine Crisis Is the West’s Fault”. Foreign Affairs SEPTEMBER/OCTOBER 2014

 
 
中国が示すもう一つの道?

その「the West」に対して、異なる価値観を表明しつつ台頭している勢力の筆頭が中国である。『TED』にも登場するなど積極的な発信を続けるエリック・リー(Eric X. Li)は「民主主義」を声高に否定するわけではないが、中国の政治体制を「民主主義」とは異なるもう一つの有効な選択肢だと主張している。彼の主張の要点は次のようなものだ。「東洋の科挙制度の伝統に由来する中国の幹部選抜・養成システムは、世襲の弊害も少なく、真に有能な人材を選抜することが出来る。世界のあちらこちらで不具合を起こしている民主主義の現状を見れば、中国型の政治システムも選択肢の一つとして有効である」と。(3)

確かに、プラトン以来議論され続け、チャーチルが「民主主義は、これまで試みられたすべての政治体制を除けば、最悪の制度である」と語ったように、民主主義は完全無欠な制度ではない。

しかし、一見、説得力を持つように見えるリーの意見は、中国の現体制が持つ否定的側面をあまりにも軽く見すぎている。リーは中国人の多くが現状に満足しており、未来に対しても肯定的だと語るが、その一方で情報統制や治安維持に莫大な予算が投下され、キリスト教徒や少数民族が過酷な弾圧を受けている現実から目を背けている。

更に言えば、中国の一党独裁という一種のエリート政治は、決して新しく提示された選択肢ではなく「これまで試みられたすべての政治体制」の一つにすぎない。すなわち、チャーチルの言葉に照らせば「最悪」の民主主義よりも低く評価されてきた体制だということだ。また、リーは「政治体制の選択」について言及しているが、中国の現状などを見ると、むしろ本質的な課題は、どのような政治体制を選択するかということではなく、どのような価値観と文化の上に社会や国家を築いていくかというところにあると思われる。

(3)Eric X. Li.“a tale of two political systems” . TED July, 2013
 
 
「the West」が世界にもたらした肯定的影響とは

米国に象徴される民主主義的な体制が世界に大きな影響を及ぼしのも、複数政党制や普通選挙など、制度自体に本質的要因があったのではないだろう。むしろ、その根底にある人間観や文化のあり方に、多くの人々の共感をよぶ性質があったのではないか。大木英夫氏は若き日の著作『ピューリタン』の中で、民主主義の源流として清教徒革命中に行われたパトニー会議を挙げている。そこにはクロムウェルなど革命軍の首脳部だけではなく、無名の兵士までもが参加し、身分の違いを越えて平等に意見を述べ、合意を作り出そうとする努力が行われた。(4)

会議の席上、クロムウェルが語った言葉が紹介されている。「わたしたちは多くの人々がわたしたちに語るのを聞いた。そしてわたしはそれらの中で神がわたしたちに語られたのだと考えざるを得ない」。クロムウェルばかりでなく一般兵士であるゴフも次のように語る。「神は今やひとりの特別な人間によって語られないで、われわれひとりびとりの心の中に語りかけたもう。もしひとりの人間から多くの人間に伝えられた伝言を聞かないことが危険であるなら、われわれの多くによって語られた神からの言葉を拒絶することは、もっと危険である」。

中世社会においては、教皇や聖職者を通してのみ神の言葉、真理は語られた。しかし、ここには神が一人一人に語りかけるという思想が生まれている。それが「会議の精神」(Sense of Meeting)として民主主義の源流となったという。その人間尊重の精神こそが、多くの異なる文化背景を持つ人々の胸にも届いたのではないか。幕末の横井小楠なども、民意の尊重や社会福祉の重視という西洋社会のあり方に「仁政」の実現の可能性を見た。「万機公論に決すべし」「上下心を一にして経綸を行うべし」等々、五箇条の誓文にあらわれる文章にもその精神は影響している。

すべての人間に等しい価値を認め、信頼し、尊重しようとする価値観、文化こそ、多くの人々が民主主義に引き付けられた理由なのである。翻って、中国の指導層が引き継いできた価値観は唯物論をその基底にもっており、人間の霊的精神的価値を認めない。更には闘争史観と暴力革命理論によって、思想的反対者に対する暴力的弾圧まで肯定されている。中国の問題点はエリート支配という体制にあるのではなく、そのエリートがよって立つ思想、価値観や文化にあるのだ。

横井小楠が後に、キリスト教的博愛精神の影に「割拠見(エゴ)」を隠した西洋に失望したように、西洋的近代は決してパドニー会議の直線的な延長にはない。しかし、心ある人々によって保たれてきたその理想が、リンカーンやキング牧師などの優れた指導者を生み出し、後世の標準となってきたことは事実である。実際に、米国や西欧諸国、戦後日本においては、一般人が理不尽な権力の犠牲になるリスクは極めて低かった。その意味で「the West」が広めた価値観や体制は、より幅広い自由と人権の享受を可能にしてくれたといえるだろう。リー自身も言及しているように、その功績には一定の評価を与えるべきだと考える。

(4)大木英夫『ピューリタン ―近代化の精神構造』中公新書、1968
 
 
共通の「物語」の不在と現代の危機

しかし、現実を見ると西側先進諸国が宣教してきた自由や民主主義といった近代的価値に対する信認はあきらかに低下しつつある。リーが指摘するように民主主義諸国は「選挙と後悔の悪循環(a perpetual cycle of elect and regret)」に陥っている。また複数政党制と普通選挙の実現が安定した社会の実現に直結しない事も「アラブの春」の失敗によって鮮明になった。更には民主主義の根底にあったはずの万民の自由、人権の尊重という「物語」自体が、彼ら自身の利己的行動によって裏切られている。民主主義を是とする人々は、この挑戦に対して答えなければならない。あるいは近代的価値に疑念をもつ人々とも共有できる「新しい物語」を捜し出さなければならない。

リーは「大きな物語(meta-narratives)」の時代の終焉を説く。冷戦の終焉によって「共産主義によって理想世界ができる」という「物語」が壊れ、今度は「自由と民主主義を広めることで理想世界ができる」という「物語」が壊れつつある、と。「もう、一つの『大きな物語』を強制するのはやめて、中国なりの行き方も一つの選択肢として認めよ」と彼は言う。しかし、それ自体も「世界は多様な体制が共存すべきで、互いに干渉しあわなければ世界はうまくいく」という一つの「大きな物語」であることを彼は見落としている。

人間は誰もが「物語」を抱いて生きている。企業にも「物語」があり、国家にも「物語」がある。共同体とは「物語」を共有する集団であるともいえるだろう。日本の保守的な層が歴史教育の重要性を訴えるのも、国民全体で共有できる「物語」を必要としているからだ。逆に、アラブ諸国が壊れるつつあるのも、国全体で共有できる「物語」の不在が原因である。スティーブン・クックは指摘する。「アラブの人々が、自分たちが何者であり、どのような国に住みたいと望んでいるのかを知るまでは、(この地域の安定のために)ワシントンに出来ることはほんの僅かだ」と。(5)

現代の危機の本質は、科学技術の発展によって世界が狭くなり、一日生活圏で交流できるようになったにも関わらず、そこに住む人々の間に共通の「物語」を見いだせないところにある。それは当然、人類規模の「大きな物語」ということになる。残念ながら、自由と民主主義の「物語」は21世紀を導く普遍的価値観になりそこねた。その「大きな物語」の空白地帯で飢えかわく人々の心を、小さいけれども先鋭的かつ強力ないくつかの「物語」がつかんでいる。プーチンがつむぐ「物語」、中国共産党が語る「物語」、また「イスラム国」が叫ぶ「物語」。この状況を前バチカン大使である上野景文氏(杏林大学客員教授)は「大きなカミと小さなカミが乱舞する」世界と呼んでいる。そして、その神々が暴力的手段を使って自己主張を始める時、世界はいくつものビロードのカーテンによって、引き裂かれることになるだろう。

(5)Steven A. Cook.“Washington can’t solve the identity crisis in Middle East nations” . WASHINGTON POST Aug 15, 2014 
 
人類が共有できる新しい「物語」

実際的な意味で、世界が急速に一つになりつつある現状は変わらない。経済的な結びつきも強まり、交通通信の発達と、それに伴う人的交流の増加も目覚ましい。言語の壁もやがては低くなっていく。世界で協働して取り組むべき課題も増えている。環境問題もそうだが、今回のエボラ出血熱のような事態をみても、国家を超えた情報の共有や、対策における連携の重要性は高まっている。その狭まった「地球村」の中で、最大公約数として共有できる「物語」とは一体何か。その「物語」の中には、ビジョン(理想像)をはじめ、尊重される価値や守るべきルールなどが含まれる。

地域的差異や文化伝統の違いがあっても、同じ人類として心と体の基本的構造は共通している。西洋的近代を全面的に肯定できなくても、自由や人権が尊重される民主主義的な社会の在り方に共感する人々は多い。また、細かな意見の違いはあっても、暴力的手段によらず、思索と対話によって共通の未来像を描いていこうということには、大多数の人が同意するだろう。真摯さや誠実、奉仕、献身などの美徳を備えた人がいれば、人種や民族を超えて敬愛の念を抱く。逆に暴力や殺戮によって泣き叫ぶ母親や子供たちを見れば、すべての人の胸が痛み、同じ成分の涙が頬を流れる。人類全体が共有できる「大きな物語」の形成は、きっと不可能ではないはずだ。

千葉大学の広井良典教授は、現代を紀元前五世紀ごろのいわゆる「枢軸時代」に続く「第三の定常化」の時代と捉え、新しい人類的な価値原理が生まれてくる時代ではないかと問題提起している。広井教授は、その価値原理がローカル(多様性)をベースとしつつグローバル(普遍性)との緊張関係の中で形成されていくのではないかと述べている(6)が、まさにそういった視点に立つ人類的対話の努力が必要な時代だと思う。

(6)広井良典『コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来』ちくま新書、2009
 
 
超宗教的対話による神々の和解

そして、その努力を主導する人々として、宗教的指導者が果たすべき役割は大きいだろう。ある人が「宗教こそ最強且つ最大のソーシャルネットワークである」と述べたらしいが、その通りだ。日本人には理解しがたいかもしれないが、現代においても多くの人々のアイデンティティの根底には宗教がある(7)。そして、その宗教が提示する「物語」が彼らの共同体における「普遍」を形作っている。ローマ法王の訪ねるところ数十万人単位の集会が行われ、メッカの巡礼月には毎年100万人が訪れるというエネルギーは無視できない。そもそも、民主主義自体も、ルターという宗教者が語った「万人司祭」という「物語」から生まれている。

「物語」の語り部としての宗教指導者の対話と協調が今ほど必要とされている時代はない。その意味で、世界12億のカトリック教会を主導するローマ法王の宗教調和に対する積極的姿勢は頼もしい。アルゼンチンの司教時代から地元のユダヤ教指導者と交流、対話を重ねてきたという現法王の存在が、世界平和にとって一つの大きなチャンスであることは間違いない。

カトリックに匹敵する人口を持つイスラムの教師たちの重要性は言うまでもないだろう。「イスラム国」の主張のような過激で排他的な思想は決してアッラーやムハンマドの意に沿うものではないはずだ。もともと、イスラムの中にはユダヤ・キリスト教を、同じ「啓典の民」として尊重する思想がある。偶像に捉われる退廃的文化に対しては、本来「啓典の民」は共闘する同志のはずなのだ。また、全人類的「物語」をつくる上では、西洋的一神教のみならず、仏教や儒教、道教などが培ってきた東洋的な知恵、家族的道徳も重要な章を形成するに違いない。更には、NGO活動家や社会起業家たちなども優秀な書き手として加わってくれるだろう。

もちろん、個々の「物語」の間には相違点もあり、歴史的葛藤の傷跡も無視はできない。しかし全ての宗教の創始者たちが、それぞれの言葉で「物語」を語り始めた時、そこにあった動機や目的には、時代や地域的特性を超えた共通点があったはずだ。人々から苦痛を取り除き、喜びや幸福を与え、悪や不正、争いのない平和な世界を希求するところからあらゆる「物語」が生まれている。その原点に立ち返り、本当に大切にすべきことは何かを深く祈り求める時、私たちは共通の言葉をもって新しい「物語」を紡ぎだすことができるのではないかと思うのである。

「祈り」と「対話」によって紡がれる「新しい物語」が平和な世界をもたらしてくれることを、心から念願している。
 
(7)“Global Religious Diversity”. Pew Research Center, APRIL 4,2014.(access Aug 22,2014)

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Posted by k. ogasawara


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