『道徳感情論』再考 アベノミクスの「弓」

エッセイ文明, 民主主義, 経済

アダム・スミスの『道徳感情論』に収録されたアマルティア・セン教授の序文は現代に生きる私たちにとって非常に示唆的だ。
『日経ビジネスONLINE』がありがたいことに全文を掲載してくれているので、ぜひ参照されたい。覚書ではないが、一部の要約に加え私見も交えて少し書いておきたい。

さて、リーマン・ショックやヨーロッパ金融危機等々、自己利益追求を基盤とする資本主義の経済システムが行き詰っていることは誰の目にも明らかになってきた。ではそれに代わるシステムが見えてきたかというとそれも怪しい。

わが国においては安倍首相が日本経済再生の為に奮闘し、アベノミクスの三番目の矢では大胆な規制緩和策を取ることになっている。しかし、これに関しても期待感を表明する人たちがいる一方で、悪質な業者の横行と非正規雇用の増加を招き、結果として格差を拡大したと批判される小泉改革を思い浮かべて拒否反応を示す人も少なくない。人々は冷戦終了直後のようには自由主義市場経済を信頼していないのだ。

一方、中国などは、自由主義諸国の行き詰まりに乗じて、ヨーロッパ危機の際など盛んに全体主義的統制経済の効用を説いていた。曰く「ヨーロッパには中央政府がなく、統一された経済政策が実行されないためにこういった危機が起こる」と。裏を返せば、中央政府の強力な権限で経済を統制することが発展にとっては有効だ、という自国の一党独裁体制の正当化である。

しかし、中国のような体制が理想だと考える人は、さすがに少数派だろう。「自由放任で各自が自らの利益を最大化させるように経済的合理性に基づいて行動すれば、神の手が働いて自動的に市場は最適化される」…という楽天的な考えには、最早、同意できないとしても、かといって、全体主義的統制経済に移行することにも抵抗はある。ではどうすべきなのか?

セン教授は指摘する。近現代の資本主義を推し進めてきた人々は『国富論』の一部だけを取り上げて鼓吹することで、アダム・スミスの主張における核心部分を見落としてきた。その見落としてきた部分を再考することで現代の課題を超克する道が見えるのではないか、と。

その見落としてきたものは、たとえば他者に対する「共感(同感)」であったり、「中立な観察者」の視点である。

『道徳感情論』の冒頭では、人間には利己心ばかりでなく、他人の苦痛や不幸に共感したり、他人の幸福を願ったりする本性があることについて記述されている。スミスは、自己利益追求のために過剰なリスクを仕掛ける人々のことを「浪費家と謀略家」と呼び、決して彼らの野放図な利益追求を無制限に容認してはいない。更には、決して市場万能主義者ですらなく、市場で解決できない重大な貧困等の事案に対して国家が適切な公共サービスを行うことの必要性についても言及している。

「中立的な観察者」の視点については、セン教授は次のようなスミスの言葉を引いている。「私たちは、言わば自分本来の立場を離れ、自分の感情や動機をある程度離れたところから見るように努めない限り、自分の感情や動機を仔細に検討することはできないし、それについて判断を下すこともできない。だがそうするためには、他人の目を借りたつもりで見るか、他人が見るとおりに見るべく努力する以外に方法がない」。

スミスは決して人間を単なる利己的存在とは見なかったし、自己利益の追求と自由競争のみによって、自動的に豊かな社会が実現すると考えたわけでもなかった。人間には「共感(同感)」や、徳を実現しようとする本性があるのであり、自身を「中立な観察者」の目で客観的に見つめ、より称賛に値する生き方ができるよう努力しなければならないと考えていたのだ。

『国富論』の「われわれが食事ができるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、彼らが自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えるのではなく、利己心に訴えるのである」という数行だけが独り歩きしたスミス理解は、セン教授の言うとおり、まったく彼の本意ではなかっただろう。自由な市場経済が機能するには、倫理的、道徳的な人間本性と、克己の精神が前提になっているのである。

そう考えれば、欧米や日本などの先進国で、なぜ、自由主義市場経済が機能したかという理由は、その担い手たる人々が一定の倫理的水準を持っていたということに尽きるであろう。たとえばピューリタンに代表されるアメリカ国民は、キリスト教的価値という普遍的基準で自己を客観視して倫理的道徳的生き方を目指すとともに、隣人愛という「共感」と近似した感情に基づいて公共の福祉を気に掛けることができる人々だった(一方で、この序文の中でセン教授が指摘している最後のポイント、自分たちの価値観に固執せず、グローバルな視点をもつという部分は欠落していたかもしれないが)。日本人も同様に、儒教的修養などを土台に、自分の感情や動機を超えて、他者や公共の福祉の為に奉仕する国民性を持っていた。

先日、あるご高齢の元経営者に話を伺う機会があった。今に至るまで数十年利益を出し続けている国民的ブランドを立ちあげた経験をもつ財界の重鎮だが、やはり尊敬すべき人格を備えておられた。自らを律する高潔さと共に、社会全体の幸福を願う貢献意欲がそこにはあった。こういった経営者が日本の発展を支えてきたのだ。

『国富論』の前提に『道徳感情論』があったように、先進諸国の経済発展には、それに先行して、倫理的道徳的な国民の存在があったのである。現代の資本主義の行き詰まりは、決してシステムの問題ではない。『道徳感情論』が忘れ去られたように、欧米や日本の繁栄を支えた前提となる倫理・道徳の軽視が「浪費家と謀略家」が闊歩する状況を招いたのである。かくして「国内の資本のうちかなりの部分」が「利益を生む有利な用途に使うとみられる人には貸し出されなくなり、浪費し破壊する可能性がとくに高い人に貸し出されることになる」という状況が表れたのである。

あの中国ですら、経営者たちの間で「儒教」など倫理道徳への関心が高まっているという。稲盛和夫氏なども相当の人気のようだ。やはり人間は単に自己利益を追求するだけの生き物ではないのだろう。国家による価値観の強制は厳に慎まなければならないが、経済の復興のためには、制度的改革だけでなく、道徳教育、人格修養の充実も必須だと強調しておこう。三本の矢も大切であり、その成功を心から願ってもいるが、その矢を飛ばす弓が痛んでいては元も子もない。

エッセイ文明, 民主主義, 経済

Posted by k. ogasawara


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