代理母出産、そして座古愛子

エッセイキリスト教, 宗教, 家庭, 結婚

代理母出産についてNHKが取り上げていました。倫理的な理由も絡まって法整備が追い付かない間に、外国の女性に依頼しての代理出産が急増していると言います。賛否両論ある中で、拙速に法整備がなされることには不安もありますが、時代の流れに追いついていない現状は何とかしなければなりません。法の隙間で悪質な業者が横行し、トラブルや悲劇が引き起こされています。実数の把握すらできないというのは非常に深刻な状況です。

ただし、当然のことですが、このような命の尊厳にまつわる問題を法律家や政治家だけで論ずるべきではないでしょう。

議論になっている点は、価値観や心の問題を含みながら、非常に広範囲にわたります。

・妊娠、出産という母体の生命にも関わる行為を、他人に依頼してもいいのか?
・更には、そのような行為をビジネスとして行うことの是非。
・胎児に障害があった場合はどうするか?(依頼者とは異なり、代理母は産みたいと願うことが多い)
・子供に対する代理母の法的立場はどうなるのか?
・生まれてくる子供の側の選択権が無視されている(複雑な境遇は本人の選択ではない)。
・出自を知る権利を保障できるか?
・複雑な出自が子供や家族関係にどのような影響を与えるか?

などなど…数え上げればきりがないほどです。また、自ら「お腹を痛めて産んだ子を引き渡したくない」と感じる代理母もいるそうですが、それは「自然」な感情というものでしょう。

どれを取っても非常に深刻なテーマです。勿論、子供を望んでも得られない御夫婦の苦しみは胸に迫ります。それでもなお、代理母による出産にはあまり簡単に賛成できません。なぜなら、愛情や血のつながり、更には命にまつわる問題は、人智では計り知れないデリケートなものだと思うからです。少なくとも、ビジネスとして行うのは時期尚早ではないでしょうか。
 
 
願いをかなえる科学と、かなわぬ願いを昇華する宗教

科学が進み、できることは増えました。日本を始めとする先進国は自由社会であり、個人の選択が最大限尊重されます。しかし、だからこそ「自由意思」と「科学によって与えられた能力」を行使するに当たって、どこに限界線を引くのかが重要です。養子縁組でなく代理母出産を選択するのは「遺伝的つながりのある子供を持ちたい」という願望があるからでしょう。そして、それら人間の切実な願望をかなえるための真摯な努力が科学を前進させてきました。

ただし、忘れられがちなことですが、すべての人の願望が常にかなえられるわけではありません。また、科学的成果にしても、倫理的、法的、その他さまざまな側面からの試験を通過して、初めて提供可能なものとなります。代理母出産は、まだまだ、その試験を通過しきったとは言えません。現状を追認する形で、なし崩しに容認する流れは健全とはいえないでしょう。

ここで改めて「宗教」が果たしてきた心理的、社会的役割の重要性を思わされます。

与えられた運命を「感謝」して受け入れ、自らの願望や欲求を「抑制」すること。そして、より高次元な隣人愛の実践へとそのエネルギーを「昇華」させていく。しかも、そうした行為を消極的な意味での「あきらめ」と捉えるのではなく、むしろ高潔さ、謙遜などの美徳として積極的に価値視し、尊敬すること。

「慎み」や「抑制」の美徳が急速に失われつつあると感じるのは気のせいでしょうか。夢や願望を実現することばかりがもてはやされる世の中では「自己」が限りなく肥大していきます。やがては、自然や天の「道理」として、尊重されてきた規範までも、良心の呵責なく簡単に踏み越えてしまう。科学と宗教を対立的に捉え、一方の力だけが強調された結果、却って肥大化する欲望に振り回されている私達ではないでしょうか。

どんなに時代が進んでも、人間には「できること」と「できないこと」があります。その意味で、科学と宗教は、どちらも社会に必要な「車の両輪」だと思うのです。
 
 
「座古愛子」という生き方
 
「座古愛子」という方をどれくらいの人が知っているでしょうか?16歳の時にリウマチを患い、67歳で昇天するまでの50年間、寝返りも打てない寝たきりの生涯を送った方です。もちろん「普通」の結婚生活も、出産もできるはずはありません。しかし、21歳でキリスト教の信仰に入ってから、不自由な手で筆を握り、手紙で多くの人に救いを述べ伝え、神戸女学院の購買部で働きながら、その柔和な笑顔で多くの人に希望の光を与えました。

手足のない中村久子が、愛子の姿、その観音様のように温かく美しい笑顔に触れて、親を恨み、世を呪ってきた生き方を根底から変えられたという逸話もあります。この出会いの場面を記した久子の文章は印象的で、心に残ります。

「横臥されている女史(注:座古愛子)のお顔は、口絵の写真より以上に美しい。神々しい観音様のように温かい。…この時の印象は終生忘れることができません。女史とは初対面なのに、目と目を見交わした刹那、涙は堰を切って流れ出しました。不自由な者のみが知る苦痛の境地、そして重度の障害者のみに与えられた魂の交流する世界―それはどんなに尊い数秒だったことでしょう。ようやく涙の顔を上げて言葉を交わし、語りつ語られつするうちに、…生きているのではない、“生かされている”―と、当時無宗教だった私にも、心の底に無言の声がはっきりと響きました。(中略)初めて心の眼が覚めました。いいえ私が覚めたのではなく、女史によって覚まして頂きました。…それ以来親を恨み世を呪うことはやめました。」(中村久子『こころの手足』)

また、この中村久子という方の人生も壮絶です。彼女は、幼いころに病気で両手両足を切断し、20歳の時には見世物小屋に「だるま娘」として売り飛ばされました。それも自らの親によって…。それでも浄土真宗の信仰を持ち、生かされていることに感謝しながら、結婚、出産、子育てもして、講演活動などで多くの人に希望と勇気を与えて行かれました。

ちなみに彼女はこんな言葉を残しています。「私を救ったのは/手足のない私の身体/この逆境こそ感謝すべき/私の師でありました」。
 
 
 
…直接は、代理母出産と関係のない話かもしれません。しかし、不遇であり、恵まれない環境にあることが、必ずしも不幸ではないこと、むしろそこから逆に世の光となれる高潔さが人間にはあることを彼女たちの姿は思い出させてくれます。

自分の子供を持てない、切実な悲しみの中にあるご夫婦に手を差し伸べられるのは、きっと「科学」の力だけではないでしょう。その深い「悲しみ」自体を、そのまま、あふれる喜びと感謝に昇華させることの出来る力が、人類の歴史の一方に、確かに存在したのです。望むことが何でも手に入る社会が、必ずしも素晴らしいとは限りません。

「座古愛子」を忘れ去った日本は、何か大切なものを失っているように思います。女性活躍相も新設されましたが、「輝く女性」と言うのは、何も「自己実現」した女性ばかりではないでしょう。それは男女とも同様です。すべてを失っても、消えることのない人間の「尊厳」とは何か、本当の幸福、本当の美しさとは何か…。それを寝たきりの病床の笑顔だけで伝えることのできる女性がいたことを、常に心のうちに刻んでおきたいと思います。
 
 
 
 

エッセイキリスト教, 宗教, 家庭, 結婚

Posted by k. ogasawara


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